えー撮りだめしておいたクレヨンしんちゃんのOPが変わる回の前半部分、
つまりドラえもんを見ていたわけですが。久しぶりに。
「あの窓にさようなら」
この回は以前旧ドラのなんらかのスペシャルで放送されており、
それを録画した我が家では月に一回くらいは放送されていた懐かしい1話である。
当時は15分程度であったが現在のドラえもんの放送体制では番組一本がこの1話で構成されている。
当然その分同じ原作でも倍にするには旧ドラとは違いが出てくる。
この話は、足をくじいたのび太のために出された、自宅の窓に他の窓から見える風景を映し出すという秘密どうぐ、「窓景色切り替え機」を使うことから始まる。
たまたま覗いた窓に向かって、別れのあいさつをする青年ヒデキ。
ヒデキが思いを寄せる少女、モモエに窓を録画した映像を見せるドラえもんとのび太。
それを見たモモエはヒデキの乗る東京への列車へと走るのであった。
と、いったストーリーである。
まず、作画が素晴らしい。
映画版のようにうごく。動作が細かい。
軽トラの窓を開ける際にハンドルを一生懸命回す。
足をくじいたのびたが足をかばいながら歩く。しかもさりげなく。
声も素晴らしい。
イメージに合ってる。表現が細かい。
例えばモモエの兄。モモタロスのお方。
そしてなにより、この回はストーリーが素晴らしいと感じた。
特に新ドラになって追加された部分である。
時間に余裕があるため、「さりげない動作」を表現したり(ドラえもんがさりげなく芋を二つ取る、といったもの)、原作では表現の無かったところを新たに解釈して追加出来るのである。
その中でも、ヒデキの家族が見送りに来るシーンなどは屈指の名シーンである。
リメイクは現代訳のようなものであると私は考えている。
旧作や原作の世界観をを現代でもギャップなく表現するにはどうしたらいいか。
漫画やアニメを現代の感覚に「翻訳」するのである。対象を「子供」などに向けて。
いうならば、リメイクだけでなく漫画や小説のアニメ化、実写化なども「翻訳」作業ではないのだろうか。
そこに「脚色」という味付けがあるにしても。
夜中に突如こんな意味不明な文章を書いて言いたかったことは
単にもの凄く感動したってこと!
つまりドラえもんを見ていたわけですが。久しぶりに。
「あの窓にさようなら」
この回は以前旧ドラのなんらかのスペシャルで放送されており、
それを録画した我が家では月に一回くらいは放送されていた懐かしい1話である。
当時は15分程度であったが現在のドラえもんの放送体制では番組一本がこの1話で構成されている。
当然その分同じ原作でも倍にするには旧ドラとは違いが出てくる。
この話は、足をくじいたのび太のために出された、自宅の窓に他の窓から見える風景を映し出すという秘密どうぐ、「窓景色切り替え機」を使うことから始まる。
たまたま覗いた窓に向かって、別れのあいさつをする青年ヒデキ。
ヒデキが思いを寄せる少女、モモエに窓を録画した映像を見せるドラえもんとのび太。
それを見たモモエはヒデキの乗る東京への列車へと走るのであった。
と、いったストーリーである。
まず、作画が素晴らしい。
映画版のようにうごく。動作が細かい。
軽トラの窓を開ける際にハンドルを一生懸命回す。
足をくじいたのびたが足をかばいながら歩く。しかもさりげなく。
声も素晴らしい。
イメージに合ってる。表現が細かい。
例えばモモエの兄。モモタロスのお方。
そしてなにより、この回はストーリーが素晴らしいと感じた。
特に新ドラになって追加された部分である。
時間に余裕があるため、「さりげない動作」を表現したり(ドラえもんがさりげなく芋を二つ取る、といったもの)、原作では表現の無かったところを新たに解釈して追加出来るのである。
その中でも、ヒデキの家族が見送りに来るシーンなどは屈指の名シーンである。
リメイクは現代訳のようなものであると私は考えている。
旧作や原作の世界観をを現代でもギャップなく表現するにはどうしたらいいか。
漫画やアニメを現代の感覚に「翻訳」するのである。対象を「子供」などに向けて。
いうならば、リメイクだけでなく漫画や小説のアニメ化、実写化なども「翻訳」作業ではないのだろうか。
そこに「脚色」という味付けがあるにしても。
夜中に突如こんな意味不明な文章を書いて言いたかったことは
単にもの凄く感動したってこと!







